キングダムの歴史をまとめたページです。
キングダムスタート前
紀元前262~260年長平の戦い
秦国と趙国の戦い。
秦の大将は六将である 白起(副将は王騎)。
長平の戦いは両国の力が拮抗し2年間も続く。
趙王が長く続く戦いにしびれを切らし、大将を廉頗から趙括に変更する。
すると戦の流れが変わり趙括は 王騎に討たれる。
大将が討たれた 趙軍は降伏するが、白起は投降した 趙人40万人を生き埋めにする大虐殺が起きる。
紀元前259年 嬴政の誕生
趙国の 邯鄲で 荘襄王の子である 政が誕生する。
( 荘襄王の即位前の名は 子楚)
当時、安国君の子である荘襄王(子楚)は趙の人質になっていた。
紀元前257年 荘襄王は趙を脱出
商人であった 呂不韋の計らいで 荘襄王は趙を脱出する。
しかし、子供である 政と妻は連れて逃げることが出来ず、7年の間取り残されることに。
紀元前250年 昭王死去
六将を作り戦の神と呼ばれた 昭王死去。
次の王は孝文王( 安国君)に決定。
呂不韋は、 荘襄王(を全財産を投資し太子にさせる。※太子は王の後継者のこと
荘襄王が太子となった時点で、その跡継ぎは政となる。
昌文君は趙から政を脱出させる。
このとき政の年齢は9歳。
紀元前 249年 荘襄王が即位
孝文王が正式に即位する。
孝文王は即位して僅か三日で死去し、 荘襄王が即位される。
荘襄王の即位に貢献した 呂不韋は 丞相に任命される。
※丞相とは国のNo2の役割
紀元前246年 嬴政の即位
荘襄王が王になり3年後に死去。
嬴政が第31第の 秦王となる。
しかし政はまだ13歳のため、実権は丞相である 呂不韋が握る。
キングダムスタート後
紀元前245年 昌文君が漂を士官する
昌文君は王弟である 成蟜の反乱を予期し、戦争孤児であり 信の幼なじみある 漂を召し抱える。
漂は 秦王の政と似ているため影武者となる。
同紀元前245年 反乱と政の脱出計画
成蟜と竭氏による反乱が起きる。
昌文君は政を王都から脱出させるため漂を影武者にするも政とは逸れる。
漂は政を救う役目を信に託し、政が逃れた場所の示す地図を渡すと同時に死去。
地図の場所にあった 黒卑村で政・信・ 河了貂の三人が出会う。
同紀元前245年 成蟜の反乱制圧
政は山の民に援軍を要請し、山の民の王である 楊端和が応じる。
多くの血が流れる中、政と 昌文君は反乱軍を制圧する。
信と河了貂は活躍を認められ、小さいながら家と土地を褒美として貰う。
信は 下僕の立場から家を持つことで、戦場に行く権利を得る。
同紀元前245年 蛇甘平原の戦い
秦が 魏へ侵略戦争を仕掛ける。
秦の大将は 麃公。
魏の大将は 呉慶。
信はこの戦いで麻鬼(まき)将軍を打ち取り、初陣で百人将に昇格する。
後に飛信隊の副将になる羌瘣と出会う。
同紀元前245年 嬴政の暗殺計画
複数の刺客が秦王である政の暗殺を狙う。
政の側近である肆氏の依頼により信が時間を稼ぎ、昌文君が制圧する。
刺客を派遣したのは、と噂される。
同紀元前245年 趙国の内乱
趙では孝成王が亡くなり悼襄王が 趙王に即位。
悼襄王は 廉頗を嫌い遠征中に大将を更迭する。
更迭を拒否した廉頗に対して、悼襄王は楽乗に廉頗の討伐を命じて内乱になる。
当時、趙国のNo1は廉頗でNo2が楽乗。
廉頗は勝利するも 趙を離れ 魏へ亡命する。
紀元前244年 韓侵略戦
秦国は 呂不韋の号令により 韓に侵攻する。秦国の大将である 蒙驁将軍は20万人の兵を率いて1カ月で11城を落とす。
同紀元前244年 馬陽防衛戦
趙軍が秦国へ侵略する。秦の多くの兵が韓へ侵略し手薄になった隙を趙軍に攻め込まれる。
秦国は強制徴兵し対応する。
秦軍の大将は 王騎。
趙軍の大将は 龐煖(李牧)。
信は百人将として参戦し、王騎から飛信隊という隊の名を受け取る。
王騎は李牧の奇襲により追い込まれ、最後は龐煖に討たれる。
残された王騎軍は副将の騰に託される。
紀元前243年 秦趙同盟
呂不韋は趙王から 寵愛を受ける 春平君を拉致する。
人質を救うため、 三大天の 李牧が秦の 咸陽に訪れる。
秦と趙は同盟を結ぶと同時に、呂不韋の交渉力により趙は韓皋を明け渡す。
紀元前242年 山陽平定戦
秦趙同盟により趙の脅威がなくなった秦は 魏国へ侵略する。
秦の大将は 蒙驁。
魏の大将は白亀西 (ただし実権をにぎるのは廉頗)
秦国は勝利し重要拠点である 山陽の地を奪う。
敗戦した廉頗は魏国から追放され 楚国へ亡命する。
信は三百人将として参戦する。
同紀元前242年 劇辛討たれる
秦が魏を攻めている間、趙もを攻める。
趙の大将は李牧と龐煖。
燕の大将は劇辛。
劇辛は第一の大将軍であり燕の英雄と言われている。
しかし李牧は1日で劇辛を追い込み、龐煖は一騎打ちとなった劇辛を討つ。
秦趙同盟の間に両国とも利を得る形となる。
紀元前241年 合従軍襲来
趙・魏・韓・楚・燕・斉の六ヶ国が合従軍となり、秦国の都である咸陽を目指し攻め込む。
秦国で外交を司る蔡沢が斉国と交渉し、合従軍から離脱に成功させる。秦国は望みを掛けて、函谷関に20万の兵を集め迎え撃つ。
秦国は咸陽の目の前にある蕞まで攻め込まれ落ちる直前に、楊端和(山の民)の援軍で守り切る。
信は千人将として参戦し本能型の才を開花させる。三千人将に昇格。
紀元前240年 蒙驁の死
紀元前239年 王弟謀反
趙が2万人の軍を起こし秦を侵略する。
その討伐に向かったのが秦王政の弟にあたる成蟜だが謀反を起こす。
政は成蟜が謀略にはめられたと推測し、趙の討伐に璧将軍、成蟜の救出に飛信隊を呼ぶ。
趙を退けるも成蟜は死去する。
同年著雍攻略戦
秦国は山陽に続き著雍(魏国)に兵を進める。
秦国の大将である騰は信(飛信隊)と王賁(玉鳳隊)を援軍として呼ぶ。
魏国の大将は呉鳳明の他に魏火龍七師と呼ばれる霊凰・凱孟・紫伯が参戦する。
騰の部下である録鳴未軍、飛信隊、玉鳳隊の強行突破により秦軍は勝利する。
王賁は紫伯、信は霊凰を討つ。
この戦いで騰は大将軍、信と王賁は五千人将に昇格する。
紀元前238年 加冠の儀
秦王の嬴政が22歳になり加冠の儀を執行。
同時に嫪毐の乱が起きる。
嫪毐と趙姫(太后)は毐国を作り反乱を起こす。
信が蕞の兵を率いて、昌文君、昌平君が援軍に入り、反乱軍を討つ。
同紀元前238年衍氏攻略
山の民である端陽和が秦軍として、不落の巨城と呼ばれた衍氏城を陥落させる。
同年 楚の考烈王が死去
楚の考烈王が死去と同時期に春申君を暗殺さ、楚を仕切っていた2人を失う。
宰相である李園が要請し禍燐も宰相の席に座る。
同年 黒羊攻略
秦国は大将に桓騎軍五万と飛信隊八千で黒羊(趙国)を攻める。
迎え撃つ趙国は大将に慶舎。
副将に金毛と離眼城の城主である紀彗。
飛信隊の信が慶舎を打ち、桓騎の奇策により黒羊を奪う。
紀元前237年 呂不韋の脱官
秦国で起きた嫪毐の乱により、関わり有りとされた呂不韋が脱官する。
紀元前236年 秦国による業攻め
秦国が趙国の業を攻める。
王翦、桓騎、楊端和の連合軍の下に飛信隊、楽華隊、玉鳳隊も参戦。
迎え撃つ趙国の総大将は李牧。
当初の作戦では列尾城を落とし補給を繋ぎながら、業を攻める予定だったが・・・